次の日の朝。
 教室に入った祐無は、潤の席で談笑している香里と潤を見つけた。

「お、相沢だ」
「おはよー」
「おっす」
「おはよう祐無、相沢君」

 当然潤たちも、教室に入ってきた二人に気がついていた。
 だから声をかけた潤だったが、香里の挨拶の仕方を聞いて、少しだけ大切なことに思い至った。

「あ、そうか。俺も美坂みたいに区別しないと、二人とも反応して紛らわしいよな」
「あははっ。じゃあ私のことは祐無でいいよ、私も北川のことは、潤くんって呼ぶようにするか……ら……」
「お、おう……」

 何故か祐無が顔を赤くしながら俯いてしまったので、四人は一瞬、それで会話が途切れてしまった。
 一日経ってもまだクラスメイトの視線は相沢姉弟に集まりやすい傾向にあるので、なんだかあらぬ誤解をされそうだ。

「な〜に赤くなってるのよあなたは。たかが名前で呼ぶくらいで」
「たかがって……じゃぁ香里もやってみてよ、ぜ〜ったい恥ずかしいんだから」
「あたしは遠慮しておくわ、柄じゃないもの」
「あー、逃げたなーっ!」

 祐無と香里の会話はとても自然なもので、そこには祐無が男装していたことへの抵抗など微塵もない。
 それを不思議に思った潤は、それがちょっと気になったので訊いてみることにした。
 簡単にそういう行動を取れる彼も、祐無と接することに抵抗がなくなっている。

「なぁ、どうして美坂はそんなに自然にあいざ――――じゃなかった。祐無……ちゃんと話せるんだ?」

 ただ、余計な力が入ってしまっていて、歯切れはあまりよろしくない。

「え? あ、あたしは元々も知ってたからね、祐無のこと」
「は?」
「一ヶ月くらい前にね、寝起きのときに素が出てバレちゃった」

 まるで昔の自分の悪戯を自慢する子供のように、祐無は舌を出しててへりと笑う。
 
「それにしても面白いなぁ潤くんは。呼びにくいんだったら、べつに呼び捨てでもいいよ?」
「それはそれで呼びにく……いや、それでいいや。祐無でいいんだな?」
「うん、そうそう。そんな感じそんな感じ」

 名前で呼び合うことに対する照れが抜けず、二人の顔は微妙に赤らんでいる。
 そんな二人の態度を見て、香里も潤と同様の疑問を持った。

「そういう北川君こそ、祐無と何の抵抗もなく話してるように見えるけど?」
「へ? ああ、昨日、結局一緒に遊ぶことになってさ……」





 ホームルームが終わった後、潤は早々に直哉に声をかけて教室から抜け出していた。
 この三ヶ月間、男だと思って一緒にバカなことをやっていた友達に突然女だと言われてしまって、正直な話、どう接すればいいのかがわからなかったからだ。
 席が隣ということもあって、向こうから話しかけてくる可能性は充分にあった。彼は、それから逃げたのだ。

「まだ十時か……とりあえず、ゲーセンにでも行こうぜ」
「だな。こういう時は、何もかも忘れるのが一番だ」



 一方、教室に取り残された祐無は、潤と直哉がそそくさと教室から出ていく様子をしっかりと見届けていた。
 本来なら自分も一緒に寄り道を堪能しているはずだった、『今までの』彼女の居場所、それが遠ざかっていく瞬間を。

(もう、あそこに私の居場所はないのかな……)

 こういう時は気晴らしをするに限る。
 もう祐一のフリをしている必要はないのだから、久しぶりに音楽ゲームに没頭してみるのもいいかもしれない。
 家に帰れば家庭用のゲーム機があるのだが、終了式の日に思い切ってプレイしたアーケードは面白かった。
 それに家庭用に発売されているものに比べて新しく、知らない曲ばかりだったから。

「よし、決めた。今日は一人でゲーセンかな。ごめん祐一、私、先に帰るね」

 奇しくも、三人の行き先は同じだった。



 なので当然、彼らはそこで再会することになる。

「げっ、相沢……」
「ヤバイ、隠れろっ!」
「いや、遅いから遅いから。そもそもどうして隠れるの?」

 二人は隣に座ってそれぞれ違う格闘ゲームをプレイしていて、祐無が無言でその間に立ったところ、先にCPUをKOして一区切りついていた直哉が、潤よりも先に祐無を発見した。
 それを知った潤の合図で二人は一目散に逃げ去ろうとしたのだが、武芸を嗜んでいる祐無の反射神経にあっさりと敗北し、揃って後ろから襟首を掴まれてしまっている。

「いや、それは……その……」
「俺たち、キミに声をかけずに遊んでたじゃないっすか」
「そ、そうそう。それだ、その通り。だから後ろめたくて」
「そうみたいね。じゃあなんで誘ってくれなかったの?」
「えーと……相沢さんは色々と大変でしょうから、今日はそっとしておこうってことになってですね……」
「うん、確かに大変だね。友達だと思ってた二人に見放されたり、クラスのみんなにはよそよそしくされたりしてるから」
「ぐっ……」

 首を掴んでいた祐無の力が、少しだけ強まった。
 それはまだ痛いと感じるほどではなかったのだが、そうされた二人は精神的に追い込められていく。
 祐無はたったそれだけで窮してしまった二人から手を離して、両手で直哉の顔を挟んで自分の方へと振り向かせた。

「そうやって露骨に遠ざかられると、もう多少強引にでも私の方から近づくしかなくなるよねー?」
「う……わ、何を……?」
「キスでもしてやろうかしら♪」

 ボンッ、という音が聴こえそうなほどに急速に、直哉の顔が真っ赤に染まった。
 体温も急上昇していて、その変化は両手を頬に当てている祐無の手にもしっかりと伝わってきている。

「ぷっ……っく、ぁ、あははははははははははは!! おっもしれー、コイツ本気にしたぞ今!」

 突然のことにポカンとしている潤や直哉を置いておきながら、祐無は故意に声色を変えて、腹を抱えて笑い出した。
 姿こそ違えど、その態度は二人の知っている『祐一』と何も変わっていない。

「は……はは、ははははははははははっ!」

 そう思ったら、知らず、潤にも笑いがこみ上げてきた。
 確かに、今の斉藤の顔は真っ赤になっていて、可笑しい。
 だけどそれ以上に、こんな愉快なヤツを避けようとしてた俺だって、充分に滑稽じゃないか、と。

「なんだよ北川まで……笑うことないだろ。相沢も酷いぜ、そうやって男をからかうのはさ」
「ごめんごめん。まぁ、今のは北川の家に泊まったときに、いかがわしいビデオを見せようとした仕返しってことで」
「ばっ……!! 変なこと思い出してんじゃねぇ!!!」





「と、まあそんなことがあってな。その後一緒に遊んでメシも食ってたら、知らないうちに普通でいられるようになってたんだ」
「ふ〜ん。よかったわね、祐無」
「うん」

 朝のホームルームまであと少しというギリギリの時間帯に、ようやくその話が終わった。
 ちなみに名雪はまだ来ていない。きっと今日も遅刻だろう。

「私としても、潤や斉藤と遊べなくなるのは寂しいし、必死になってたから――――って、私も呼びにくいや。『くん』をつけるの忘れちゃった。やっぱり呼び捨てでいい?」
「ああ、もう好きにしてくれ」
「うん。じゃあそうするね、潤」

 その二人のやり取りを見て、香里がどう思ったのかは定かではない。
 そしてもう一人、会話には入らずにずっと自分の席に座っていた祐一は、温かな瞳で最愛の姉を見守っていた。





「ふむ……。君のことを名前で呼ぶようになった人は、僕を含めてこれで二人目だね、潤」

 石橋が教室に来たので席に座った途端、後ろの席に座っていた男子が呟くように話しかけてきた。
 彼は潤とは旧知の仲で、いわゆる幼馴染みという関係だった。
 小学校の六年間がずっと同じクラスで、しかも毎年出席番号が前後になっていた間柄だ。
 去年のクラスは違ったのに、どういうわけか彼もまたこの奇妙なクラスに組み込まれていた。

「貴志か。そう言えばそうだな、家族以外だとお前と祐無だけだっけ」
「まあ、そう言う僕も、家の者以外では君だけだけどね」
「なになに? 潤と久瀬って知り合いだったの?」

 すぐ隣とその後ろの席の二人が自分のことを話しているのが聴こえてきたので、祐無も首を突っ込んできた。
 潤の後ろの男は久瀬貴志という名前で、祐無とも面識がある。この学校の生徒会長だ。

「ああ、まあな」
「僕のことは久瀬さんと呼んで欲しいね、相沢さん。厳格な家柄に生まれてしまったために、軽率な女性と親密だと思われると困るんだよ」
「う……私って軽率なの?」
「実際はそうじゃないんだろうけど、よく知らない奴にはそう見えるかもな」

 祐無には三ヶ月間、自分の正体を隠し通せたという自負がある。
 そのため自分ではとても慎重な性格だと思っているし、祐一の声色の使いどころもしっかり心得ていたりと、その行動には計画的なものが多い。
 だがその実、女の子一人でゲームセンターに行ったり、潤の家に一泊したりと、軽率な行動を起こすことも少なくない。

「それより、お前はそんな態度ばかりとってるから、名前で呼んでくれるような奴がいないんだよ」
「こればかりは仕方がない。それが久瀬家の方針だからね」

 貴志自身ですら反感を抱いていることなのだが、彼の家系は収益の見込みが低いものを見限ることによって成長してた。
 そのためそれを徹底できる大人になるために、彼は父親に友人関係にまで口出しをされている。
 潤との交友が認められていることがまだ幸いだったが、貴志には父親に逆らえるほどの強さがなく、今は仕方なくその方針に従っているといったところなのだ。

「へ〜ぇ、お金持ちの家にも色々あるんだね。私や佐祐理さんのところはそんなに厳格でもないんだけど」

 貴志とは顔見知りだったが世間話などしたことのない祐無は、それを聞いて率直な感想を漏らした。
 金持ちといえば佐祐理の倉田家くらいしか知らないが、彼女の家も、久瀬家ほど親からの私生活への介入はない。
 社会勉強のために、という理由で家を出ることを認可するくらいだから、むしろそれは皆無だと言えるだろう。
 祐無自身も、外出だけは強く禁止されていたが、屋敷の中では気ままに生活ができていた。

「私のところ……? 倉田さんはともかく、君の家がお金持ちだという話は聞いたことがないが……」
「ではここで問題です。相沢という名のお金持ちといえば、いったいどこがあるでしょう?」

 貴志の言葉を聞いて大好きな家族を自慢できると思った祐無は、右手の人差し指を上に立てて得意げに聞き返した。
 当然、貴志は彼女の目論見どおりの結論に達する。

「まさか……。まさか、あの相沢財閥!?」
「では、久瀬さんは私と仲がよいと思われると迷惑だそうなので、私はこの辺で……」
「い、いや、ちょっと待ってくれ! 今の話を、もう少し詳しく……!!」

 教室の前を向くことで顔をそらした祐無を、貴志は焦って引き止めようとした。
 自然と、その声も大きくなる。

「久瀬……北川や相沢のような小声ならともかく、ホームルーム中に大声を出すのは関心せんな……」
「……すみません」

 結果、彼はらしくない注意をされることとなった。